下書きを読み返してみて、うーん、ちょっと長ったらしいかな、削れる部分ありそうだな…とか考え中。
文面が完成したら、近代座の文章ともどもニコニコ大百科にでも寄稿しようかなと思います。
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根本嘉也
1926年1月9日、神奈川県生まれ。
1950年、早稲田大学文学部芸術科演劇専攻を卒業(※1)。
在学中に坪内士行(※2)の授業を受けたことがきっかけでシェイクスピア作品に興味を持ち、以降の生涯をシェイクスピア作品の普及と啓蒙にささげることになる。
卒業した1950年に知り合いを集め、「近代劇場」(※3)という劇団を結成する。近代劇場はシェイクスピア作品を専門に上演することを目的に設立された劇団で、加藤長治など早稲田大学教授たちが顧問として参加していた。この近代劇場の舞台はテレビ放映されることもあった。
近代劇場を主宰しシェイクスピア劇を演じ続ける傍らで、副業としてテレビドラマに俳優として出演する。俳優業については、根本氏だけでなく、近代劇場の団員にも仕事を回していたようである。
1966年秋、近代劇場の名称を「劇団近代座」に改める。
この頃、テレビ業界ではテレビアニメ産業が加速。根本氏を含む近代座の団員は、テレビの仕事としてドラマ俳優に加えアニメの声当てなども引き受けることになる。
1974年、「チャージマン研!」の声の出演にて劇団近代座とクレジットされる。しかしながら、このチャージマン研!は資料がほとんど残っていないアニメで、近代座の誰がどのキャラの声を当てていたかという記録が一切残っていない。これが、40年近くたってチャー研研究者たちを悩ませることになる。
全盛期は団員が100名以上いた近代座も、1970年代後半には活動を見せなくなる。関係者の証言によれば、この頃からの近代座は事実上根本氏の個人活動名義のようなものになっていた。
その後、アーツビジョン(※4)に所属。この頃の仕事についても文献がほとんど残っておらず、関連書籍を当たってみても根本氏のプロフィールが2、3行で納められていることがほとんどである。
関係者による証言(=ウワサ)によれば、そもそも根本氏はこの頃には副業などせずとも生活できるほど本業が充実しており、また当時のアーツビジョンの社長であった松田咲實と知り合いであったり、現場で根本氏から演技指導を受けたという話がある。これらを統合すると、知り合いであった松田咲實からの依頼で、アーツビジョンに演技指導のため在籍していた可能性があったということになるが、もちろんこれは筆者の推測の域を出ない。
90年代後半、かつての近代座の団員と再会。近代座として活動を再開することになる。
ちなみに近代座を再開する直前の頃には「根本嘉也と子羊たち」という劇団を主宰していたようだが、詳細は不明。
また同時期にアーツビジョンを離れた形跡もあるが、これについても具体的な年月は不明。
再び近代座としてシェイクスピア作品を演じながらも、2004年2月15日、死去。享年78歳。
根本氏の死後、近代座の活動は会田由来が引き継ぐことになる。
※1 文学部に1946年設立された芸術科の第一回卒業生。年度でいうと昭和24年度であり、資料には24年卒業と書かれている。
※2 シェイクスピア研究の第一人者である坪内逍遥の甥であり、養子。
※3 命名者は演劇研究家で演劇博物館館長(当時)の河竹繁俊。
※4 声優プロダクション。1984年設立。
参考文献
大木豊 ・菊池明・黒川義博・林京平・根本嘉也 (1960) 「芸術科の草創期を語る(座談会)」 『早稲田演劇』,(6),108-119
VIPタイムズ社 (1980) 『日本タレント名鑑 1981』,150
キネマ旬報社 (1996) 『声優事典』,第二版,231
劇団近代座第22回公演「真夏の夜の夢」パンフレット